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目次
江戸時代の庶民の食事
江戸時代、庶民の食事はどんなもの?
基本は一汁一菜、ご飯をたくさん食べて満腹にしていた
一汁一菜が基本で御飯に味噌汁、香の物におかずが一品つく。現在のように普通の家庭でも日常の食事に何品もおかずが並ぶようになったのは戦後の話である。
引用:ひふみ塾 夜回りブログ
江戸時代の都市部の庶民(町民)の例では、ご飯を山盛りとみそ汁、一品のおかずと漬物がスタンダードな内容だったようです。江戸時代、新田開発などにより米の収穫量が増え、市場に出回る量も増えたので庶民も精米した白米を食べていました。
一日二食だった食事は江戸時代で三食へ
(1日3食となった)背景には、農業の発達により米の収穫量が増大するなど、食料事情が増大し、さらに座や問などの流通が発達して、食料の入手が容易になったことにある。
引用:栄養学のメモと活用
庶民が3食とるきっかけは江戸時代の明暦の大火という説もある。幕府は焼失した江戸を復興するため全国から大工や職人を集めて一日中働かせたが、朝食と夕食だけでは体力が持たないため、昼にも食事を提供するようになり1日3食の習慣が広まっていった
他にも3食になった理由として、ろうそくや行灯の普及から就寝時間が遅くなったので一日三食になったのでは?という説もあります。
ちなみに江戸時代は朝一度に一日分のご飯を炊いて、季節に合わせてうまく保存して食べました。冬の夕食は熱いお湯をかけて湯漬けにするなどの工夫がありました。
大量の白米ばかり食べて、「江戸わずらい」と呼ばれる脚気が流行
お米を精米することで雑穀や米ぬかには含まれていたビタミンB1が不足することで脚気がおこります。
脚気が流行していたのは「白米」にビタミンBが含有されていないからなんですね。こんな理由に加え、おかずの品数が極端に少ないので、現代のように様々な食材からビタミンBを摂取することもできなかったのです。
そばの屋台が脚気の救世主になったという説もある
それでも当時は「脚気」がビタミンB不足からくる疾患とは分かっておらず対策も立てられませんでした。ところが「明暦の大火」以降、江戸にたくさんの職人が流入し、その職人たちの食を賄う屋台が大流行。屋台のそば屋がことのほか繁盛し、一般庶民も昼食などに利用するようになってから脚気が減ったともいわれています。
ビタミンBを含有する「そば」が江戸の病の救世主になったのですね。
庶民が食べていたのはこんなおかず
現代でもおなじみのきんぴらやめざしなど!
引用:江戸ガイド
何が書いてあるのか現代人が読むのはちょっと困難・・・。これは江戸時代に流行した「番付」のチラシです。この番付はいわば「庶民が選ぶ、節約おかずランキング!」江戸の庶民は現代とさほど変わらぬ娯楽で楽しんでいたようですね。
おかずの他に以下のような「香の物」や「常備菜」も一緒に食べられていました。
お漬物は、沢庵漬、梅干し、ぬかみそ漬、大さかづけ、なすびづけ、茎菜漬など。常備菜は、ひしお、日光唐辛子、でんぶ、ざぜん豆(大豆などを醤油・黒砂糖で煮しめたもの)など。
引用:yahoo知恵袋 昔、たとえば江戸時代はどんなおかずを食べていた
それでは「節約おかずランキング」から、精進料理、魚料理別に上位のおかずをご紹介していきましょう!
精進料理 小結「きんぴら」
引用:金平のお話
魚料理 小結 「芝海老の乾煎り」
精進料理 関脇 「こぶあぶらげ」
引用:楽天レシピ
魚料理 関脇 「むきみ切り干し」
精進料理 大関 「八杯豆腐」
魚料理 大関 「めざしいわし」
引用:カロリーslism
画像は現代に再現されたおかずたちですが、やっぱり白いご飯が進むようなおかずばかりです。味付けも全体的に濃い目であることが多かったようです。それにしても現代でも通用する美味しそうなおかず!基本的な味覚はあまり変わっていないようですね。
お肉は食べていたの?
仏教伝来以後、獣肉は禁止されていたが、名前を変えて時々は滋養のためと言い訳しつつ食べられていた
江戸時代、表向きは奈良時代からの獣肉食禁止を引き継いでいました。鳥肉と魚肉だけがOKでした。特に牛馬については、農民の補助労力であり、庶民を含めて牛馬の屠殺は禁じられていました。
参照:yahoo知恵袋 江戸時代に庶民が食べていた肉料理は…
戦国時代には、農家から労働力である牛馬を盗み、兵たち自ら屠殺して食べました。禁じられてはいてもお肉が滋養のあるおいしい食べ物というのは周知の事実だったのでしょう。
イノシシを牡丹、馬を桜、鹿を紅葉、鶏肉を柏(かしわ)といった具合です。鶏は禁止でしたが鳥は禁止されていなかったので、ウサギを一羽、二羽と鳥と同じように数えて食したそうです。
彦根藩は「赤斑牛の肉だけは食べても穢れない」との理屈を付けて、毎年の寒中に赤斑牛の味噌漬けを将軍と御三家に献上している。
江戸時代になると庶民も武士も何やかやと「屁理屈」をこねて時々は肉食を楽しんでいたんですね。江戸の市中には獣肉を売る「ももんじ屋」という店が十数件もあったそうです。
江戸時代の農民の食事
農民の食事はどんなもの?
お米に雑穀を混ぜた「かて飯」を食べた
少ないお米に稗(ひえ)などの雑穀や大根、芋がら(里芋の茎を干したもの)、サツマイモなどの野菜を入れたものです。
引用:江戸ガイド
残っている資料によると、ある農民の1日の食事は、朝はご飯の残りを小麦粉と混ぜて焼いたお餅、昼は雑炊、夜は粉団子汁というものでした。
引用:cafy
基本的に江戸という都会に暮らす人たちと、地方に暮らす農民では流通している食材も違うので食生活は異なります。白米でお腹いっぱいにする都市部の庶民とは違い、植物の茎や山菜、豆類に至るまで、食べられるものはすべて使って食事を作りました。
粗末すぎる食事・・・は後からついたイメージ?
手仕事や米以外の農産物で副収入も得ていた
米以外の商品作物、染料の藍や紅花、蚕のえさとなる桑、紙の原料となる楮などには税が課せられていませんでした。農民は稲作の合間でこうした商品作物を栽培し、お金を手に入れ、より生産力を高める金肥を手に入れたりしました。
引用:ひすとりびあ
江戸時代、米には非常に高い税率がかけられていましたが、綿や藍などの商品価値のある作物には税がかけられていなかったため、農民は稲作の合間にこうした作物を作り、麻や綿などを織物にしたりして現金を手にしました。
飢饉の時は別として、飢えに苦しんだということはなさそうです。普段は雑穀などを入れた「かてめし」を食べ、ハレの日は米だけのめしになったのでしょう。麦、稗、アワ、大豆などを混ぜると栄養価が高くなるのです。
引用:安心計画 江戸時代の農民
食事の回数は江戸の庶民より多かった
日中は畑や田んぼ仕事で体をひたすら使い、エネルギーを補給するために、この「御八つ」の午後3時ごろに、簡単な食事をしていたのです。
このときの「御八つ」がいまでいう「おやつ」なんです。元々は農民の過酷な労働の栄養補給のための食事だったんですね!
農民が食べていたのはこんなもの
現代でいう「マクロビ食」でとってもヘルシー
「大麦こうせん」
引用:Verdure 4F
これは現代でもおなじみ、口に入れるとほろっと崩れる素朴なお菓子「麦こがし」です。もっとも当時砂糖は貴重品。お菓子というよりは麦の香ばしさを感じる栄養食だったのかもしれませんね。麦にはビタミンB1が含まれています。
「蕎麦焼餅」
これはそば粉を水でこねて、茹でてからこんがり焼きます。醤油などをつけて食べていました。ちなみにこのそば粉を売ることは農家の大切な副収入になっていました。
「雑穀と菜葉などの粥」
引用:佳肴 季凛
写真にはありませんが、このような雑穀の粥に芋がらや山菜、菜っ葉などを入れて炊いていました。器一つでさっと食べられて栄養価も高そう。忙しい農民たちにはぴったりの食事ですね。
「粉団子汁」
引用:組長のおなかいっぱい♪幸せいっぱい
粉団子はお米を粉にしたもの。たくさんの野菜とともにくたくたに煮てたべます。米団子で作ったすいとんのような感じでしょうか。
雑穀や蕎麦などビタミンBも滋養も豊富で脚気患者がいなかった
江戸生活で脚気になった人が、田舎生活をすると何故かすぐに治ることは知られていたようです。
引用:江戸時代campus
農民の食事内容を見てもわかるとおり、お米ばかりではなくビタミンBが含有されている雑穀や大豆、木の実など様々な食物を食べていますね。江戸に戻ると白米の食事に戻り脚気が再発するのですから、当時「江戸わずらい」にはさぞ頭を抱えたことでしょうね。