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目次
江戸時代とは
誰がいつ興したか
各藩がそれぞれの地方を統括する幕藩体制徳川家康が慶長8年2月(1603年)に江戸幕府を樹立
慶長8年2月12日(1603年3月24日)、徳川家康が征夷代将軍に任命されたことをもって江戸時代の幕が開けました。ちなみにそのたった2年後、家康は息子の秀忠に将軍の職を譲っています。
出典:戦国武将.jp
徳川家康が1600年の関ヶ原の戦いで豊臣勢を滅ぼし、1603年に天皇より正式に「征夷大将軍」に任命されたのが始まりでしたね。ちなみに征夷大将軍とは蝦夷(東北地方)を征伐する軍の最高司令官の役職名だそうです。
以来15代の将軍、明治改元までの265年間
・歴代将軍の年表・・・http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/shogun.html
・主な出来事の年表・・・http://www.sky.sannet.ne.jp/gongtian_ming/nenpyou1.htm
意外なことに初代将軍家康はたった2年で後継者 秀忠に後を譲っているんですね!中には7代将軍 家継のように5歳で将軍になって8歳で亡くなったなんて人も・・・。年表を見ると、そんな短命で幼い将軍の御世にも新しい法律が作られています。当然ながら経験不足の将軍の背後には大きな後ろ盾があったのでしょう。
江戸幕府の仕組みと役職
各藩がそれぞれの地方を統括する幕藩体制
大名は、それぞれの藩の統治をまかされて、将軍に忠誠を尽くし軍役の義務を負っていた。また、幕府は、港、都市や鉱山などの大切な場所を直接支配し、軍事力や財政力において、他の大名の力をはるかに超え、大名は反乱を起こさないような仕組みを作った。
引用:日本文化を楽しもう
他にも諸大名の力を削ぐのに一役買っていたのは参勤交代。何せ一年おきに家臣を連れて江戸に上がるのには莫大なお金がかかります。江戸幕府は他の大名たちの力をうまく抑え、なおかつ世の中に経済を回して太平の世を作っていたんですね。
江戸幕府の役職
出典:歴史研究所・日本史
老中は 江戸幕府で政務いっさいをとりしきる重職、 現代で言うところの首相 。 大老は 老中の上にある幕府最高職で、常時ではなく臨時の職です。 大老が決定したことは 将軍でさえも覆すことができない重職でした。
引用:yahoo知恵袋 老中大老の違いは何?役割りの違いは何ですか?
なるほど。幼くして将軍になっても「大老」という臨時職を任命して政治を取り仕切ったのですね!
江戸幕府はどこにあった?
政治の中心は江戸城=現在の皇居
意外と知らない人も多い、江戸城のあった場所。ちなみにこの場所は風水によって決められ、ち密な計算のもとに建てられた護りの強い場所なんです。
幕領は大阪や京都などの重要都市と資源豊富な場所
江戸幕府の直轄地「幕領」は、当時は御料、御料所と言った。関ヶ原の合戦に勝利した際に、徳川氏は自身の蔵入地も150万石確保し、佐渡、石見、生野などの主要鉱山や、京、伏見、奈良、佐渡、長崎などの主要都市を直轄地に組み入れた。
幕領とは江戸幕府の直轄地のこと。天下の台所である大阪や天皇の在所京都、他に鉱山や資源が豊富な取りを幕府の土地に組み入れ、財政基盤を確保しました。
江戸幕府は財政難だった?
理由1 商品生産が盛んで物価は上昇、なのに米の物価はあまり上がらなかった
江戸幕府は年貢米で財政を賄っていた
江戸幕府の財政は全て年貢米によって賄われていました。もちろん武士のお給料もお米。各大名はお米で収益を増やそうと新田開発に力を入れます。江戸時代には商品やサービスの物価が急上昇する中、米が豊富だったため米の物価の上昇率は緩やかでした。米による収入も激しい消費には追いつかなかったのです。
理由2 地方生産者でもあった武士がいなくなった
武士が都市生活者になったので地方の生産力が落ちた
参勤交代により各地方の武士は留守がちに。特産品の生産などに力を入れることができず、結果的に幕府は自分の首を絞める結果に。
理由3 武士の公卿化、奥向きの贅沢
大名は戦がなく雅な趣味やたしなみ、贅沢に興じた
「天下泰平」の世の中。各大名は戦もなく地元と江戸を行ったり来たり。江戸の華やかな空気に触れればお金のかかる趣味もたしなみたくなるもの。地方の武士がどんどん都会の「雅」に憧れていったのです。江戸幕府の奥向き(正室、側室などの女性たち)も贅沢になっていきました。
理由4 大火や飢饉も大きな理由に
江戸年間で49回もの大火と四大飢饉
「火事と喧嘩は江戸の花」などという言葉もありますが、江戸では、密集した住居、人口過多のための犯罪(放火)などの理由から、ほかの都市と比べても格段に火事が多かったのです。江戸幕府の影響力が低下してくると治安も悪化し、ますます火事も増えていきました。
さらに江戸時代は歴史的に見ても氷河期に当たり、寒冷な夏や異常気象で凶作が多かったといわれています。
江戸幕府の滅亡
江戸幕府はいつ滅亡したのか
慶應3年10月14日(西暦1867年11月9日)
将軍・慶喜は10月13日に上洛中の40藩の重臣を二条城に集め、大政奉還を発表しました。翌日14日、政権を天皇に返上するとの旨を明治天皇に提出
引用:日本歴史巡り
大政奉還により江戸幕府は幕を閉じました。しかし実際、明治天皇がいきなり政治を行えるわけもなく、政治の実権は変わらず江戸幕府が握っていました。1,868年4月11日に江戸城が無血開城をもって江戸時代の終わりとなります。
江戸幕府が滅亡した理由
ペリーの来航で開国”させられた”幕府に不満が募る
独裁政治を行ってきた幕府が自信を失い、外交政策に対する自信のなさは、幕府をおそれて政治的意見を控えていた諸大名や武士階級を一気に勢いづかせた。このなかで主流となった意見は、幕府の弱腰を非難し、鎖国を守り、外国勢力を撃退せよ、というものでした。
参照:世界史講義録
幕府の弱腰を不満に思った勢力は「こうなったら朝廷を押し立て、外国勢力に対抗しよう!」というムードで盛り上がっていきました。江戸幕府の陰りの色がだんだん色濃く見て取れます。
場当たり的な財政改革はすでに行き詰っていた
幕府には既に財政と言える程のものは無く(富商達から国家予算の半分を責め取った)倹約に対する反発等(大奥等)も多く、封建制度は行き詰まっていた。
引用:日本歴史と雑事記録
財政の悪化は課題であったのに根本的な解決を図らなかった幕府。ここにきて傷口が一気に開きます。
幕府の力が弱まり一揆や打ち壊し全国で頻発、社会は混乱
江戸後期にもなると百姓の階層分化が激しく,人別帳からはずれる無宿が多くなり,都市に流入する貧民が増加した。ちょっとした物価の上昇で生活をおびやかされ,打ちこわしに参加する人びとが増えたのだ。
引用:新現代史講義
先にも述べたように貧民が江戸に流入すれば治安も当然悪化していきます。放火や窃盗なども増え大火の原因を作りました。
日米修好通商条約が締結され物価が上昇、庶民の不満は高まった
この条約は、外国に治外法権を認めること、日本側に関税自主権が無いという2点において、日本にとって不利なものでした。
引用:開国と江戸時代の滅亡
日米修好通商条約では、函館・横浜・新潟・神戸・長崎の5港を開港し貿易を行いましたが、治外法権によって外国人の犯罪者を裁くこともできませんでした。
尊王攘夷思想の気運が一気に盛り上がる
攘夷論というのは、外国との貿易に反対し、外国人を国内から追い払おうという考えです。これに、天皇を敬い幕府に反対する尊王論が加わって、尊王攘夷という考えが芽生えました。
引用:開国と江戸幕府の滅亡
当時、過激な尊王攘夷論を掲げていた薩摩藩は幕府と対立し、世の中の流れは急速に倒幕へと傾いていったのでした。