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目次
江戸時代とは
いつからいつまで?
1603年~1868年までの265年間
慶長8年2月12日(1603年3月24日)、徳川家康が征夷代将軍に任命されたことをもって江戸時代の幕が開けました。ちなみにそのたった2年後、家康は息子の秀忠に将軍の職を譲っています。
江戸時代の終わりには諸説ある
終期については、ペリー来航の1853年、桜田門外の変があった1860年、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年、明治政府樹立を宣言した1868年、廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する。
江戸時代の終わりはいつだったのか。これには諸説あるようですが、現在では1867年(明治元年4月11日)に江戸城が開城され、明治政府に明け渡された時を江戸時代の終わりとする説が主流です。
江戸時代、日本の人口はどのくらい?
推定人口3000万人前後
1726年以降6年ごとに人口調査が行われるようになり、これにより大まかではあるものの人口の推移がわかるようになりました。
引用:江戸時代campus
この江戸時代の人口調査は各藩の裁量に任せるものでした。当然地方の小さな集落まで把握できいこともありましたし、自分の藩の武士の数を申告することは軍事機密に当たるので、虚偽の人数を申告したりする藩もあったようです。
以上のようなことから、実際は300万人~500万人の誤差があったのでは、と言われています。しかしながら、当時総人口について大規模な調査を行うという事は非常に画期的なことでした。
江戸はどこにあった?
現在の皇居を中心に4~6㎞くらいの範囲
1818年に出された江戸の範囲についての幕府の公式見解を現在の地図に当てはめると、
江戸城を中心として、
東・・・錦糸町駅あたりまで
西・・・信濃町駅あたりまで
南・・・品川駅あたりまで
北・・・鶯谷駅あたりまで
です。この4駅を鉛筆でなぞってぐるっと囲むくらいがだいたいの江戸の町の範囲です。
引用:yahoo知恵袋
引用:ビバ!江戸
現在の東京都内よりもずっと狭い範囲だったんですね。それでも一番早い乗り物は「馬」だった時代ですから大江戸の名にふさわしい大都市だったのでしょう。
江戸時代の経済は高度成長
幕藩体制が需要を生み出した
大名は多くの家臣ととも江戸に滞在し、大名屋敷、武家屋敷群が建設され、建設工事が資材や労働力への巨大な需要を生み、膨大な工事関係者の生活を支えるための食品、日用品、娯楽などの消費需要が生まれる。
参照:るいネット
数千人クラスの一晩の宿代が現在のお金で3千万円ほど。さらに家臣が各所で家族のお土産などを買い求め、お風呂屋さんも繁盛したというのですから、宿場町は色めき立ったのではないでしょうか。
このような理由で江戸時代の庶民の経済は活性化していたのですね。
江戸時代の生活
庶民の食事はどんなもの?
食事は一汁一菜、お米はなんと一日五合!
引用:江戸ガイド
ビタミンB欠乏で脚気に悩まされる人が多かった
この時代以前、人々の主食はビタミンBを含む雑穀が中心でした。しかし江戸時代に入って庶民は豊かになり、白米を食べることが「粋」とされ栄養価の偏った少ないおかずでたくさんの白米を食べていました。
脚気は、患者が地方に療養に行き雑穀を食べるようになると快方に向かうため、「江戸わずらい」と呼ばれました。しかし雑穀(ビタミンB)との関連性は明らかにされず、脚気を悪化させて死亡することもある恐ろしい病気でした。
農民は米ではなく主に雑穀が主食
農民は、幕府から米を食べることを制限されていた為、白米のみはほぼ食べることができずアワやヒエなどの雑穀を主食としていました。魚もほぼ口に入ることはなく、ちょっと裕福な家庭で月に1~2度口にできるほどでした。
引用:食事健康.com
もちろん当時の農民には脚気患者はほとんど見られなかったのです。脚気はいわば「ぜいたく病」だったのですね。
識字率が世界一って本当?
江戸時代、識字率、就学率ともに世界一といわれる
嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。
引用:日本の世界一
実際は統計ではなく、ほとんど外国人の手記による
江戸時代に識字率を調査したという記録はないので正確な識字率は不明ですが、寺子屋などのように庶民が文字を学べる学校は諸外国には例がなく、日本全体の識字率は高く50%以上、江戸に限って言えば80%を超えていたのではといわれています。
これらのことは日本を訪れた外国人が書物に書き残したものから推測していますが、当時先進国のロンドンでも識字率は20%ほどといいますから、日本人の識字率の高さにはみんな驚いていたようですね。
ペリーは日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いた。
<『日本絶賛語録』(村岡正明著、小学館)より>
参照:日本の世界一
平均寿命はどのくらいだった?
およそ30歳~40歳
30歳~40歳といえば現代では働き盛り真っ盛り!でもこの平均寿命にはこんな”からくり”があるんです。
7歳までは神のうち、というほど死亡率が高かった!
子どもが生まれても7歳までに亡くなる子供が大勢いたので平均寿命がこんなに短いんですね。
こんなに乳幼児の死亡率が高かった一つの原因として、当時の女性の白粉(おしろい)の原材料である鉛で中毒になる乳幼児が多かったのだといわれています。顔だけでなく胸まで塗ることが流行ったといいますから授乳の時に鉛が体内に入ってしまう子も大勢いたのでしょう。
乳幼児はあまりにもあっけなく死んでしまう。数え年で7歳(満年齢6歳くらい)になって、ようやく人間社会の存在として数えましょう、ということです。
引用:江戸ガイド